”二位殿やがて 抱き たて まつり、「波の下にも 都の さぶらふぞ」と 慰め たて まつつて、千尋の底へぞ 入り 給ふ”
これは平家物語に出て来る安徳天皇の最後です。 壇ノ浦で入水されます。
西に 向かって 念仏を 上げ始められた帝を、建礼門院(平時子)が抱きかかえ、「波の下にも都がございますよ」とお慰めして 入水した、そうです。
この時、帝はわずか6歳。 何も知らずに小さな手を合わせていた子が、大人の争いに巻き込まれ、大変短い一生を終えます。 想像しただけで身につまされます。
実際のところ安徳天皇は、126代にわたる天皇家の歴史の中で唯一戦で命を落とされた天皇だそうです。最も若く亡くなった天皇でもあり、未婚のまま亡くなった3天皇のうちの一人でもあります。
天皇家の不幸を一身に背負ったようなお方です。
祖谷の伝説では、安徳帝は屋島の合戦の後、壇ノ浦には替え玉を送り、ご本人は祖谷に落ち延びて来たということになっています。
そんな祖谷でもやはり若くしてお亡くなりになっており、悲哀に満ちた逸話だけが今に語り継がれています(その概略をまとめたものはこちら)。

以前、うちの母親が栗枝渡八幡神社の祭りの日に火傷を負った話を書きましたが、祖谷で最も大きなこの祭りも安徳帝ゆかりのものです。
祭りは毎年帝がお隠れになった旧暦8月15日に行われます。 神社からそのご神体が移され、神輿に乗って近くの御旅所まで旅をするという趣旨のものです。
御旅には、神輿に先立って天狗(猿田彦)、長刀、鉾、毛槍が進み、神輿の後には山車が続きます。 祖谷では珍しい大きなお練です。
しかも法被には菊の御紋が入っています。 太平洋戦争時代、憲兵からも使用が許されたという菊の御紋。 安徳帝ゆかりの祭りであることが内外から認知されていたことがわかります。
その貴重な映像もあります。 こちらです。
この時は既に下火になっており、集落外の人たちの姿も散見されます。人手不足が既に始まっており、集落外からも人をかき集め、何とか最低限の行事を行ったという感じでしょうか。

その後、祭りは縮小の一途をたどり、今では祭り自体が無くなろうとしています。
今年は10月6日(月)が旧暦の8月15日に当たりますが、まだ実施するかどうか決まっていないようです。 昨年も中止になりました。
理由は高齢化による人手不足ですが、それをカバーしようとしてくださる支援者もいます。とある大学のゼミ関係の皆さんや、昨年やったウルトラマラソンの選手たちです。
しかし、本番だけでなく準備のための人手も不足しているようです。本番だけのお手伝いでは立ち行かないようです。
「事前準備も手伝いますよ」と伝えてはいるのですが、お手伝いや支援では腰があがらない感じです。 あとは中に入って主体的に動くしかなさそうです。
と言うことで、栗枝渡八幡神社の祭り存続を願う地元の皆さん、有志の会を作って存続活動に主体的に関わっていきませんか?
段取りは私の方でやりますので、準備と当日のお手伝いに参加いただければそれで結構かと思います。
地域外からも募集したいと思いますが、まずは核となる地元メンバーが必須です。
我こそはと思われる方、私まで直接コンタクト頂くか、Webサイトのお問合せ欄から連絡ください。
なお、今年の祭りに間に合わせるのはさすがに無理なので、来年に向けて動きたいと思います。


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