加羅宇多姫伝説と若宮神社

祖谷の観光サイト/若宮神社 祖谷の歴史
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ヘイケガニってご存じですか? 聞いたことがある方、結構いらっしゃるのではないでしょうか?

でも、どんなカニか、イメージできますか? できない方はこちらをご覧ください。 甲羅の模様、凄いですね! まるで人面です。

しかも、目を吊り上げ、口を固く結んで、怒りとも苦しみともとれる何とも言えない無念の表情に見えます。

足が4本しかないように見えるのも悲壮感に追い打ちをかけて見えます。

このカニ、瀬戸内海や九州沿岸の底引き網漁に混じるらしく、壇ノ浦に沈んだ平家一族の怨霊おんりょうが宿ったものと恐れられていたそうです。 それが ”ヘイケガニ” の由来で、食用に向かないこのカニが有名になった理由でもあるようです。

ヘイケガニのイラスト

ヘイケガニには平家の怨霊以外にも言い伝えがあります。 兵庫県の人と自然の博物館というところに妖怪展を見に行ったとき知りました。

”兵庫県では、ヘイケガニをタケブンガニと呼んだとも伝わります。 この名前は、鎌倉時代末期の後醍醐天皇の家臣であった秦武文はだのたけぶんに由来します。 武文は土佐国に流された皇子尊良親王たかよししんのうの元におきさき様を向かわせる道中の護衛でしたが、尼崎の大物浦で海賊に騙されお后様を奪われてしまいます。 武文は腹を切って海へ飛び込み、怨念となって、海賊を襲いお后様を助けると言う話です。”

ここでもやはりヘイケガニは怨霊の化身とされる訳ですが、この話を読んで私は大変びっくりしました。 祖谷いやにも加羅宇多姫からうたひめ伝説と言うものがあり、似たような話が残っているからです。

祖谷の歴史/加羅宇多姫伝説

”元弘の乱で敗れた後醍醐天皇は隠岐へ、その皇子の尊良親王土佐の幡多はたと言うところに流されました。 この尊良親王には、都に加羅宇多姫と言う相思相愛の人を残してきたものですから、大変寂しがられていました。 そこで家臣の秦武文はたたけふみが都に加羅宇多姫をお迎えに行くことになりました。 当時姫は懐妊中、身重の状態だったのですが、京の都からわずかの侍女じじょ乳母うばに手を引かれ、一歩一歩歩いて辛く、長い旅が始まったのです。 加羅宇多姫たち一行は、土佐の幡多へ向かう途中、この祖谷を通りかかりました。 その時産気づいた姫は若宮様をお産みになりました。 しかし、若宮様はすぐにお亡くなりになってしまいました。”

以上は、私が所属するガイド団体”よびごと案内人”の旧パンフレットに書かれたいた文言です。 この話にも、尊良親王土佐国家臣の秦武文姫(お后)お迎え、が登場します。 タケブンガニの話と同じです。

祖谷の観光サイト/若宮神社

同パンフレットによると、そのあと加羅宇多姫は、土佐に向かって旅を続けますが、その途中で尊良親王が九州に移動したことを知ります。 仕方なく引き返す途中、祖谷の吾橋あわしという集落で無理がたたって落命されたと言われています。

と言うことで、若宮様(あかちゃん)と加羅宇多姫は、各々若宮神社、古宮神社にお祀りされ、今も大切に管理されています。

祖谷の観光サイト/若宮神社手前の橋

加羅宇多姫伝説は西祖谷を中心に残されており、東祖谷に住む私にはこれまであまり縁がありませんでした。 が、尊良親王の足跡も含め、大変興味深い話なので、調査の上、また記事にしていきたいと思います。 今回はその前振りです。

ちなみに、加羅宇多姫伝説に出て来る若宮神社も古宮神社も山深いところにあります。 それではなかなか手が行き届かないということで、分祀というのでしょうか、若宮神社は幹線沿いにも設置されています。

場所は若宮谷川と祖谷街道(県道32号線)が交差する辺り、若宮橋を渡ってすぐ左にあります。 若宮橋はまるで鉄橋のような赤くて目立つ橋なのですぐにわかると思います。

ひの字渓谷方面に行かれる際は必ず前を通りますので、是非お立ち寄りの上、手など合わせていただければと思います。

最後に、蛇足とは思いますが、後醍醐天皇はもちろんのこと、尊良親王も実在の人物です。 彼は元弘の乱で鎌倉幕府に捕縛され、土佐国に流罪になっています。 しかしそこを脱出し、九州で旗頭となって父(後醍醐天皇)の幕府打倒に貢献しています。 その活躍ぶりなどは、室町時代の古典文学”太平記”に登場するそうです。

※本ブログに掲載の冒頭の写真、ならびに加羅宇多姫のイラストは、よびごと案内人のパンフレットのものを使用しています

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