謎の谷道。 とうとう行きました! 案内人さんのおかげで、集落・分校跡も、トロッコ列車跡も(但し一部だけ)、銅山跡も見れました!
その中から本日は集落・分校跡について記録を残しておきたいと思います。
場所は谷道川上流。 途中までは439号線に沿って上がります。 途中から分岐し、舗装されていない谷道川沿いの道に入ります。 すると下記写真の場所に到着します。 この辺りです。

ここが目印です。 昔、倉庫だったようで、土木用の材料などをしまっていたそうです。
それがなぜか火事で焼け、今はこんな形で残っています。 不審火として結構な騒ぎになったそうですよ。
それにしても。 「橋を渡った広いところが分校跡」。 そう聞いていたはずなのに。。。
「入り口から3kmほどのところ」。 そうも聞いていたはずなのに。。。 車の距離表示は5.8km*。 聞いていた距離の倍。 見つけられない訳です。
しかし、ここのどこに集落跡・分校跡があるのでしょうか?
*今回は車で入りましたが一般の方は歩きじゃないと入れません。途中に鍵のかかった柵があります。我々は案内人が鍵を持っていたので車で入ることができました。

と思っていると案内人さんがおもむろに川側の斜面を下り始めます。 こんな景色のところです。

下ると少し広い場所があり、ここに何やら立札があります。 ここでしょうか?
違いました。 地元の小学生が平成2年に杉の植樹に来た記念碑のようです。 森林教室と書いていました。

こんな吊り橋跡が見えてきます。 メインケーブルとそこにぶら下がるワイヤだけが残っています。 敷板などはすべて朽ち果てたようです。 昔はこの橋を使って対岸に渡っていたのでしょうか。

でも今は橋はありません。 谷まで降りる必要があります。 上から見るとこんな感じです。 きれいな谷です。 というか川です。 これは谷道川。
丸木橋らしき残骸もあります。 集落が消滅し、吊り橋も朽ち果てた後、何らかの必要があって丸木橋を渡していたのでしょうか。

川に降りる道です。 もとい。 ただの崖です。 岩の割れ目を伝って降りるようです。
自信がない人はここで引き返しましょう。

谷です。 と言うか川です(しつこい?)。 きれいな川ですが景色に見とれていてはいけません。 石がヌルヌルで危険です。 足元に全集中して渡りましょう。

対岸に渡ると、さっそくこんなものを発見。 人が住んでいた形跡です。

こんなものも発見!。 明らかに、誰かが生活していた証です。

先程の橋の対岸側です。 ここを上れば集落跡が見えるのでしょうか?

見えました! 集落跡です。 遠くに石垣が見えます。 このような石垣が3段ほど組まれ、結構な広さです。
「橋を渡った広いところが分校跡」。 その言葉が蘇ります。
「あっ、そういう事~!?」。 私は思います。
確かに橋はありました(壊れてたけど)。 広い場所もありました(分校跡ではなかったけど)。
しかしこんな謎解きのような場所にあるとは思いもよりませんでした。 てか、絶対無理! 独力では決して辿り着けません!

気を取り直して石垣に近づきます。 落し積みと呼ばれる頑丈な組み方をしています。 なので今もばっちりです。 まったく壊れておりません。

これはなんでしょう? 風呂?
そうだとすると手前の水槽の意味がよく分かりません。
奥の風呂釜で炊いた湯を水槽に移していたのでしょうか?

こちらは正真正銘の水槽です。 鯉でも飼っていたのでしょうか? 防火用であることは間違いなさそうです。

これはトイレ跡と思われます。
木材を切り出すために成立して消滅したこの集落。 風呂も、トイレも、池も共同だったのかも知れません。

次は分校です。 谷道川に流れ込む小さな谷を越えて上流に進むようです。

こんな感じで再び崖を伝って古道に進みます。 先頭の方が案内人さん。 御年80歳です。

私も後を追って谷川を渡ります。 こんな感じです。 岩と流木の塊です。 小さな石や砂はありません。 雨天時に激流に豹変するためと思われます。

谷を渡り、岩の割れ目を越えて古道に出ます。 するとまずこんなものが見えます。 炭焼き小屋の跡だそうです。

よく見るとまだ炭が残っています。 炭焼きをやっていた頃のものか、単なる焚火の跡か、詳細は不明です。

途中、民家跡がありました。 手前の石垣が宅地跡、前方のコンクリートが炊事場みたいな感じです。

タイヤも捨てられていました!
なぜタイヤ??? 車で入って来れるとは思えないのですが???

更に古道を進みます。

着きました! 分校跡です。 左のコンクリートがトイレ跡、その右側が校舎の基礎部分らしいです。

校庭です。 小学生ならソフトボールくらいはできそうです。

複数の樹木にこんな傷跡もありました。
鹿が角を研いだのでしょうか?
熊ではないと思いますが、いずれにしても今は野生動物たちのねぐらなのかも知れません。
以上です。 皆さん、この集落・分校跡、いかが思われますか? 私には大変ミステリアスに映りました。
と言うのは、畑の形跡がないんです。 当然田んぼもありません。 食料はすべて配達や買い出しで済ませていたのでしょうか。
家は大変密集して建てられていました。 たぶん社宅のような感じかと思います。 そして風呂やトイレは共同っぽいです。
何やら、本当に、木材の切り出しだけを目的としてここに住んでいたようです。 集団生活をしていたと言った方が正しいかも知れません。
それが想定外に反映してしまったのでしょうか? 生活様式は保ったまま、家を増やし、学校まで作るはめになった、という風に見えました。
高齢者の話によれば、ここの住民はお隣の高知県から来た人たちで、小屋や学校を作るための土木工事には地元、すなわち祖谷の人たちも協力したと言っています。
Webサイト村影弥太郎の集落紀行によれば、人口は、昭和12年0戸が、同35年には44戸222人になったとあります。 原木の伐採・集材に携わる労務者が居住した新興集落で、事業が完了したため、昭和45年3月31日に分校が廃校となって無住となったそうです。 私は見つけられませんが、東祖谷山村誌にそう書いているそうです。
しかし、それにしても、ここの人たちはここでどんな暮らしをしていたのでしょうか? 今度はそんなことが気になり始めます。 念願の谷道集落に足を踏み入れて、謎が更に深まった感じです。
でも嬉しい! さすが谷道! そうでなくては! まだまだ谷道で楽しめそうです。

などとほくそ笑みながら帰路に向かった私でしたが、再び断崖絶壁が立ちはだかります。
そうだった。 浮かれてる場合ではありません。 ここを無事登り切らないと帰れません。
私は恋慕の思いを振り払うように壁を登りました。
と言うことで、繰り返します。 谷道集落跡は紹介させていただきましたが、自信のない人は、くれぐれも自重ください。
特に単独では来ないようにしましょう。 ここを落ちて怪我をしても誰も助けには来てくれません。

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