先々週に続き、祖谷の歴史を変えた3つの出来事第2弾をお送りします。 今回は平家の落人伝説です。 約840年前の話です。 恵伊羅御子と小野老婆の入山から400年以上後ということになります。
平家の落人伝説の概略については、”祖谷における平家の落人伝説をまとめておきます” や “祖谷における安徳天皇伝説をまとめておきます” にまとめていますので、ここでは平家落人がどのように祖谷の歴史に影響を与えたかについて書いてみたいと思います。

(平国盛が記念に植えたとされる大枝の鉾杉)
平家の落人が最初に祖谷に足を踏み入れたのは大枝という集落です。 そして落人一行はそこに暫く滞在します。
滞在と言っても、数十人はいたと考えらえる人たち。 小さな集落にとっては結構な勢力だったに違いありません。
得体の知れない人達が突然やってきて幅を利かせている。 周りからはそう見えて、あまりよい気がしなかったことでしょう。
そこで7人の地侍が夜襲をかけます。 大枝集落の名主宅にいる人たちを狙ったのです。
そこに何人いたのかは分かりませんが、相手は源平合戦を経験した強者ども。 田舎侍が太刀打ちできるはずがありません。 襲った7人は全員返り討ちにあいます。
そして彼らは ”七人塚” として手厚く葬られ、今も名主末裔によって大切にお祀りされています。

(大枝集落に残される七人塚)
と言う感じで、好まれざる来訪者だったはずの平家の落人。 しかし地元民との軋轢で残されているのはこの話だけです。
それ以外については、幼い安徳天皇のかわらしい様子だったり、国盛さん(落人の棟梁)の平家再興への熱い思いだったり、どこか哀愁を帯びた平家寄りの伝承が残るばかりです。
という事で、祖谷の歴史を変えた2つ目の出来事と言いながら、どのように影響を与えたのか、それがわかるような具体的な事例を私は知りません。
知りはしませんが、平家の馬場と呼ばれる騎馬訓練場があったり、定福寺や栗枝渡八幡神社と言った神仏に関わる伝承が残っていたり、装束石や皇宮の太鼓田など安徳帝ゆかりの伝説があったり。。。
その伝承は多岐に渡り、平家の入山が、軍事、祭事、衣装、農耕など幅広く祖谷全体の社会生活に大きな影響を与えたことが容易に推察されます。

(平家屋敷阿佐家住宅)
実際のところ、江戸時代において阿佐家は祖谷八士の一人として祖谷の統治に深く関係しておりましたし、その石高は東西祖谷で群を抜いて高いものでした(”喜多家24代目さんと源内さんの話をしました”参照)。
また明治時代においては平家の末裔が代々村長を務めたり、お住まいも”入母屋造り”で書いたように他とは一線を画す大きさや形状を誇るものでした。
当然ですが、これら権威は江戸時代にいきなり身に付くはずもなく、実際、阿佐家や阿佐集落に残る遺物は中世のものであることも確認できています。 その頃から既にこの地で威勢を奮っていたことがわかります。
と言うことで具体的な事例がなくて申し訳ありませんが、以上を総合的に考えてみることで、840年前に平家の入山は確かにあって、その後の祖谷の生活に大きな影響を及ぼしたことは間違いないだろうなぁと思っています。
本日時点で言えることはこれくらいです。引き続き調査し、何か分かったら報告したいと思います。
なお、ちょうどこの記事を書いている最中に ”阿波のカタリべ” と言うサイトで祖谷の平家落人伝説が公開されました。実在する文書や三好市の文化財の大家のお話をもとに構成させた秀作と思いますので、是非こちらもあわせてご覧いただければと思います。
阿波のカタリベ【平家落人伝説の真相~祖谷山旧記が語る平家の足跡~〈前編〉】4K

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